アジアの観光市場で、タイ人の動向が新たな局面を迎えている。かつて「訪日ブーム」の主役だったタイの中間層が、2026年に入り、中国や周辺国へとその触手を急速に広げている。背景にあるのは、相互のビザ免除措置による利便性向上と、中国政府・企業による「デジタル・絨毯爆撃」とも言える猛烈なプロモーション攻勢だ。一方、円安・バーツ高を追い風にした日本人気も根強く、アジアの空の便を巡る獲得競争は一段と激しさを増している。
■ 中国、10億元規模の「爆買い」プロモーション
バンコク中心部のサイアム・パラゴンやエムクオーティエといった高級商業施設を歩けば、現在の勢力図が一目でわかる。かつて日本自治体の観光PR一色だったイベント広場は今、中国のオンライン旅行大手、携程集団(トリップドットコム・グループ)や中国各地の観光局による大規模なロードショーに占拠されている。
中国側が展開するのは、単なる景勝地の紹介に留まらない、官民一体の戦略的マーケティングだ。関係者によると、中国側は2025年から2026年にかけて、対タイ向けのインバウンド促進予算として10億元(約200億円)規模を投じているとされる。
その中核を成すのが、「中泰一家親(中国とタイは一つの家族)」というスローガンだ。歴史的・文化的な親近感を強調するこのキャンペーンは、タイ人の心理的ハードルを劇的に下げた。トリップドットコムが2026年初頭に実施した「グローバル・インフルエンサー・キャンペーン」では、タイのトップKOL(キー・オピニオン・リーダー)数十人を成都や重慶に招待。彼らがTikTokやInstagramで発信する「洗練された近未来都市」としての中国の姿は、日本の「伝統的な風景」に飽き始めていたタイの若年層を熱狂させている。

■ 「デジタル包囲網」で地方都市へ誘導
中国の攻勢は、決済インフラとデジタルプラットフォームの融合においても他を圧倒している。
- SNS主導のトレンド創出: タイで普及している「Lemon8」や「TikTok」上で、アルゴリズムを駆使して「重慶の火鍋」「自貢のランタン祭り」といった特定の体験をピンポイントでバズらせる手法を確立。
- 決済のストレスフリー化: アリペイ(支付宝)やウィーチャットペイがタイの主要銀行アプリと相互連携を強化。広告内で「バーツのままスマホ一つで旅ができる」ことを強調し、日本の現金社会に対する比較優位を打ち出している。
- AIによるパーソナライズ広告: 航空予約履歴に基づき、AIが「日本を検討中の層」を特定。より安価で豪華な中国の「隠れた名所」の宿泊プランを自動提示する、競合奪取型のデジタル広告を強化している。
実際、最新の統計によれば、2026年第1四半期のタイ人海外旅行予約数は、中国が53.9%と過半数を占め、2位の日本(23.1%)を大きく引き離した。かつての「上海・北京」といった定番ルートだけでなく、四川省や雲南省といった地方都市への予約が前年比で3倍以上に急増している。
■ 訪日旅行は「量から質」へ、ブランドの再定義迫られる
首位を譲ったとはいえ、日本の存在感は依然として強固だ。2026年もバーツ高・円安基調が続く中、タイ人にとって日本旅行の「お買い得感」は極めて高い。しかし、中国が圧倒的な資本力とデジタル戦略で「新規顧客」を囲い込む中、日本はリピーター層の維持という守りの局面に入っている。
現在の訪日トレンドは「地方・体験・プチラグジュアリー」だ。
- 地方分散: 東北の雪見温泉や、瀬戸内の島巡りなど、リピーター層が未踏の地を求めて地方へ分散。
- 体験重視: 単なる観光から、現地の食や温泉、四季の体験といった「コト消費」に支出がシフト。
- 高付加価値化: インフレ下でも余裕のある富裕層の間では、1泊10万円を超える高級旅館やプライベートツアーへの需要が急増している。
■ 試される観光戦略、問われる「発信力」
タイ市場は今や「安定成長型の巨大消費市場」へと変貌した。しかし、そこでの戦い方は一変している。
日本の観光庁や各自治体もSNSでの発信を強化しているが、中国のプラットフォーマーが仕掛ける、決済・予約・SNSが一体となった「エコシステム」による囲い込みには苦戦を強いられている。ある旅行業界アナリストは、「日本は『選ばれる理由』をこれまでのブランド力に頼りすぎている。中国のようなデータに基づいた緻密なマーケティングと、多額のプロモーション予算による空中戦に対応できなければ、タイ人にとって日本は『二番手の旅行先』に定着しかねない」と警鐘を鳴らす。
2026年、アジア観光の覇権は、単に美しい景色を持つ国ではなく、デジタルとリアルの体験を融合させ、消費者のスマホ画面を支配した国が握ることになりそうだ。
【日刊タイニュース編集長の目】
タイ人の旅行動向は、アジアの経済・外交のバロメーターだ。中国によるプロモーション攻勢は、単なる観光客誘致を超えた「ソフトパワーの誇示」の側面も持つ。タイの中間層が「日本ブランド」の安心感と、中国が提示する「刺激的な新体験」のどちらに長期的な価値を見出すのか。日本の観光戦略は今、かつてない岐路に立たされている。