「豊かになる前に老いる」未曾有の危機、アヌティン政権の処方箋は
東南アジアの優等生として経済成長を続けてきたタイが、いま、国家の存亡をかけた大きな転換点に立っている。深刻な少子高齢化だ。かつて日本が経験した「静かなる有事」は、タイにおいて日本の数倍のスピードで進行している。「未富先老(豊かになる前に老いる)」という過酷な現実を前に、アヌティン政権はどのような舵取りを見せるのか。日本の先行事例との比較から、タイが直面する構造的課題を浮き彫りにする。
「日本超え」のスピードで進む少子化
タイの出生率低下は、専門家の予測を上回るペースで加速している。2025年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の推定数)は1.0を割り込み、0.9台に突入した。これは、日本の1.2前後(2023年時点)を大きく下回る深刻な数値だ。
特筆すべきはその「速さ」である。高齢化率(65歳以上が占める割合)が7%から14%に倍増するのに要した期間は、日本が24年であったのに対し、タイはわずか20年足らず。さらに、20%を超える「超高齢社会」への到達も、日本以上の短期間で達成すると見られている。
日本との決定的な相違:経済的余力とセーフティネット
日本との比較において最も懸念されるのが、所得水準の差である。日本が本格的な高齢社会に突入した1990年代、国民1人当たりのGDPは約3万ドルを超えていた。対する現在のタイは約7,000ドル台。つまり、社会保障制度が十分に成熟し、国民が老後の蓄えを持つ前に、国全体が老いていく「未富先老」の罠に嵌まっている。
| 比較項目 | 日本 (1994年 高齢化率14%) | タイ (2022年 高齢化率14%) |
| 1人当たりGDP | 約39,000ドル | 約7,100ドル |
| 主な産業構造 | ハイテク・精密機器 | 製造受託・観光・農業 |
| 社会保障 | 国民皆年金・皆保険が定着 | 制度構築の途上・格差大 |
日本の場合、少子化対策は「現役世代の負担増」という文脈で語られることが多いが、タイでは「労働力の枯渇による産業の空洞化」がより直接的な脅威となっている。
アヌティン政権の「国家戦略」:多角的な出生率対策
アヌティン・チャーンウィーラクーン首相は、少子化問題を「国家の最優先事項」と位置づけ、2026年度予算においてこれまでにない規模の対策を盛り込んだ。内務相を兼務する強みを活かし、中央政府と地方自治体が連携した「草の根」の対策が進行中だ。
- 経済的支援の拡充:児童手当の増額に加え、第2子以降の出産に対する大幅な税控除を導入。また、低所得層を対象とした「出産奨励ローン(低金利)」の提供も開始した。
- 不妊治療の公的支援:タイが得意とする高度医療を活用し、体外受精(IVF)などの不妊治療を公的医療保険の対象に加える検討を進めている。医療観光としての強みを自国民の少子化対策に転用する狙いだ。
- 労働法改正と環境整備:育児休暇の取得推進や、民間企業に対する「社内託児所」設置への補助金を強化。特に日系企業を含む製造業に対し、柔軟な勤務形態の導入を強く働きかけている。
労働力不足を補う「DXと外国人材」
出生率対策は即効性に欠ける。そのため、アヌティン政権は短中期的な解決策として「自動化(DX)」と「外国人労働者の受け入れ拡大」の両輪を回している。
製造現場では、人手に頼らないAIエージェントやロボット導入への投資減税を加速。また、近隣諸国(ミャンマー、ラオス、カンボジア)からの単純労働力だけでなく、ハイテク分野での高度外国人材を呼び込むための「LTR(長期居住)ビザ」の要件を緩和した。
【総括】「日本を他山の石にできるか」
タイの少子化問題は、単なる人口統計上の問題ではなく、東南アジア全体の成長モデルが持続可能かどうかを問う試金石だ。
日本の失敗例(対策の遅れ、非正規雇用の拡大による未婚化)を教訓としつつ、タイは独自のスピード感で対策を講じる必要がある。アヌティン首相が掲げる「デジタル経済への移行」と「強固な社会保障」の両立が成し遂げられるか。その成否は、タイが「中所得国の罠」を突破し、先進国の仲間入りを果たせるかどうかの分岐点となるだろう。
2026年のタイは、かつての日本が歩んだ道を見つめながら、より険しい坂道を一気に駆け上がろうとしている。