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タイ全土を震撼させた「人食い中国人シーウイ」の正体――60年間ガラスケースに晒された男は、本当に怪物だったのか

画像はThai PBSの特集番組より転載

「言うことを聞かない子は、シーウイに食われるよ」――タイでは長年、親が子どもを叱るときにこの名前を口にしてきた。日本でいう「なまはげ」や「口裂け女」のような存在だが、決定的に違うのは、シーウイが実在の人物だという点だ。映画化もドラマ化もされ、処刑後は遺体が博物館に晒され続けた”タイ史上最も有名な殺人鬼”。だがその物語は、単純な猟奇事件では終わらない。

中国から密航してきた寡黙な庭師

シーウイ(Si Ouey/黄利輝)は1927年ごろ中国・広東省の生まれ。戦後の混乱を逃れ、1946年12月、貨物船に忍び込んでバンコク港に密航上陸した。タイ語もろくに話せず、庭師や日雇い労働者として各地を転々とする、社会の最底辺の移民だった。

事件が動くのは1950年代。1954年から58年にかけて、プラチュワップキーリーカン、ナコーンパトム、ラヨーン、バンコクなどで子どもの殺害事件が相次ぐ。そして1958年、ラヨーン県で8歳の少年ソムブーン君の遺体を焼こうとしていたところを現場で取り押さえられたのが、シーウイだった。

「心臓と肝臓を食った」――自白が生んだ怪物

取り調べでシーウイは複数の児童殺害を自供したとされ、さらに「被害者の心臓や肝臓を取り出して食べた」という供述が報じられると、タイ社会は騒然となった。「人食い中国人」の見出しが新聞に踊り、シーウイは一夜にして国民的な恐怖の象徴に。裁判で死刑判決を受け、1959年9月16日、バンコク郊外のバンクワン刑務所で銃殺刑に処された。32歳だった。

異様なのはここからだ。処刑後、シリラート病院の医師が「犯罪者の脳を研究したい」と遺体を引き取り、防腐処理された全身はシリラート医学博物館のガラスケースに収められた。ケースには一言、「มนุษย์กินคน(人食い人間)」。以後約60年、直立した褐色のミイラは観光名所と化し、修学旅行の生徒から外国人観光客までが”本物の食人鬼”を見物し続けたのである。

シリラート病院で展示されていた頃のシーウイ。展示名には『人食い』の文字が

映画『シーウイ』、そして繰り返されるドラマ化

この事件はタイのエンタメ界にとっても格好の題材だった。2004年には映画『Zee-Oui(シーウイ)』が公開。中国人俳優ドアン・イーホンが主演し、差別と貧困の中で壊れていく密航者としてシーウイを描き、単なるモンスター映画ではなく「社会が怪物を作った」という視点を持ち込んだ。テレビでもたびたびドラマ化・再現番組化され、シーウイはホラーの定番キャラとしてタイ人の集合的記憶に刷り込まれていった。

「あいつは冤罪だったのでは」――60年後のどんでん返し

ところが近年、この”国民的怪物”の物語は根底から揺らいでいる。有罪の決め手はほぼ自白のみ。タイ語が不自由な移民に通訳もろくに付かず、拷問まがいの取り調べで調書が作られた疑いが指摘されている。実際に立件されたのは現行犯的に押さえられた1件で、「人肉を食った」という核心部分も物証はない。当時のタイに渦巻いていた反中国人感情の中で、都合のいいスケープゴートにされたのではないか――そんな見方が研究者やジャーナリストから相次いだのだ。

2019年、「彼を人間として弔うべきだ」というネット署名運動が拡大。シリラート博物館は「人食い人間」の表記を撤去し、2020年7月、シーウイの遺体は執行から61年を経てようやくノンタブリー県の寺院で荼毘に付された。読経する僧侶9人、棺の前に手向けられた紙の花。参列者の多くは、かつて彼を「怪物」と教えられて育った世代だった。

怪物を作ったのは誰か

シーウイが本当に子どもたちを手にかけたのか、真相はもう闇の中だ。ただ確かなのは、貧しい密航者ひとりに社会の恐怖と憎悪が集中砲火を浴びせ、死後60年もその遺体を見世物にし続けたという事実である。映画やドラマが描いてきた「食人鬼」の物語は、裏返せば、群衆がいかにたやすく怪物を必要とするかという物語でもある。ガラスケースが空になった今、問われているのは彼ではなく、我々のほうかもしれない。

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