
タイ中部ウタイタニ県の森で、20年間ジャングルを守ってきた男が、その森の主に命を奪われた。8月5日朝、ホワイカーケーン野生生物保護区で巡回中だった職員の携帯電話が鳴り続けていた。持ち主は応答しない。同僚が異変に気づいたときには、すでに手遅れだった。
亡くなったのはウタイタニ県ラーンサック郡在住の職員、サクリン・ウィチャチャーン氏。ホワイカーケーン野生生物保護区に20年間勤務してきたベテランで、事件はタップセラー川沿いの巡回中に起きた。現場には獲物を引きずったような痕跡があり、遺体には野生動物にかまれた跡が残っていた。近くの地面には新しいトラの足跡が見つかっている。
「電話が鳴っているのに出ない」異変に気づいた同僚
最初に異変に気づいたのは、上司であり第一発見者でもあるサンウォーン・ムーンチャムナーン氏だった。「朝、後輩の職員から電話がかかってきて、『先輩に電話しても出ない』と言われました」とサンウォーン氏は振り返る。「本人が寝ていた場所に行くと、寝具の上で電話が鳴っているのに、姿がない。名前を呼びながら歩いても返事はありませんでした」。
サンウォーン氏はさらに捜索範囲を広げ、休憩所から200メートルほど離れた水路にたどり着いたところで、サクリン氏が倒れているのを発見した。「トラの毛と足跡があったので、すぐに上司に報告しました」と説明する。
妻と11歳の娘、涙で見送った遺体
5日夕方、遺体はスワンプラチャーラック病院からウタイタニ県ラーンサック郡ラバム地区のポーンサームシップ寺院へ搬送された。妻のパーラディー・チャムニウィッカムさんは11歳の娘とともに、終始泣き続けた。「特に予感めいたものは何もありませんでした。仕事に出る前に『子どもをよく見ていてね』と話しただけです」とパーラディーさんは声を絞り出した。「体があまり丈夫な人ではありませんでした。日曜の夕方に帰ってくるはずでした。月曜が休みだから、娘を学校に送っていくと言っていたのに」。
夫婦には娘が一人おり、サクリン氏は20年にわたりホワイカーケーンの森林警備にあたってきたという。
「血痕がなく、格闘の跡もない」SNSで広がる憶測
現場写真を分析したというタイの有名フェイスブックページが「トラに襲われたにしては血痕が少なく、抵抗した跡が見当たらない」と指摘し、事件の詳細を巡ってSNS上で議論が広がった。「体格の大きい男性がほとんど抵抗できずに命を落とすとは考えにくい」といった趣旨の書き込みが相次ぎ、「森の中では何が起きているか分からない、ただ冥福を祈るしかない」といった声も並んだ。
これに対し野生生物保護当局の担当者は、トラは獲物の頸部や喉元を狙って一瞬で仕留めることが多く、致命傷を受けた場合は抵抗する間もなく絶命するケースが実際にあると説明。同僚のサンウォーン氏も「あの水路までの距離を考えると、争った形跡がなくても不自然ではない」と話す。
周辺5頭以下と推定、当局が捕獲へ
森林局長は事件を受け、現場付近に生息するトラの頭数は5頭以下と推定されるとした上で、問題の個体の捕獲を指示した。当局は今後、周辺のパトロールを強化するとともに、遺族への見舞金や補償の手続きを進める方針を示している。
タイの森林保護区では、密猟者との銃撃戦こそニュースになりやすいが、今回のように野生動物そのものが職員の命を奪う事態はまれだ。20年間、密猟者よりも深い森の奥で虎を守り続けた男の死は、皮肉にもその虎によってもたらされた。日本の感覚では「公務員が野生の虎に襲われて死ぬ」という出来事自体が想像しにくいが、タイの奥地では今もこうした現実が横たわっている。