タイの2027年の法定最低賃金(日額)を巡る議論が足踏みしている。政府・使用者・労働者の三者で構成する賃金委員会は、9月末に予定していた審議を開けないまま11月に入った。26年は中東情勢の緊迫に伴うエネルギー高を理由に改定を見送っており、据え置きは1年半に及ぶ。一方で消費者物価は再び上昇基調にあり、労働側の不満は強まっている。最大の焦点は首都バンコク周辺3県の引き上げ幅と、改定の発効時期だ。
審議、延期重ねる
賃金委員会は当初、8月中旬に27年分の審議を始める予定だった。その後9月29日に全国の改定額を取りまとめる日程を組んだが、会合は開かれなかった。労働者側委員のウィーラスック・ケーオブンパン氏は10月24日、地元紙マティチョンの取材に対し、会合が何度も先送りされ、10月に入っても新たな日程が固まっていないと明らかにした。27年の改定が年明けに間に合わないとの懸念も示した。
委員会自体は準備を進めてきた。6月30日の会合では足元の経済・雇用情勢の報告を受け、改定の妥当性を見直す枠組みと基準を協議している。全77都県に置かれた地方小委員会が生計費などを調べ、その報告をもとに中央の委員会が額を決める仕組みだ。決定後は閣議の了承と官報告示を経て発効する。
26年は異例の据え置き
26年に改定が行われなかったのは、3月17日の委員会で三者が全会一致で当面の審議見送りを決めたためだ。労働省のワンナポン・コッチャラック事務次官は当時、中東での戦闘が生産コストに大きな打撃を与えているとして、使用者側の懸念に配慮した判断だと説明した。
この結果、現行の賃金は25年7月1日に発効した賃金委員会告示第14号のまま推移している。日額は最高400バーツ、最低337バーツで、地域ごとに17段階に分かれる。400バーツが適用されるのはバンコク、プーケット、東部経済回廊(EEC)の中核であるチョンブリ、ラヨーン、チャチューンサオの各県とスラタニ県サムイ島郡に限られる。これとは別に、一定規模以上のホテルと娯楽施設には全国一律で400バーツが課されている。最低の337バーツは南部国境のナラティワート、パタニ、ヤラーの3県だ。
10年余りで100バーツ
過去の推移を振り返ると、タイの最低賃金の上昇は周辺国に比べて緩やかだった。インラック政権が13年1月に全国一律300バーツを導入した後、軍事政権下を含む数年間はほぼ横ばいが続いた。バンコクの日額は17年に310バーツ、18年に325バーツ、20年に331バーツと、1回あたり数バーツから十数バーツの小幅な改定にとどまった。

潮目が変わったのは新型コロナウイルス禍の後だ。22年10月に353バーツ、24年1月に363バーツと引き上げが続き、タクシン元首相派のタイ貢献党(Pheu Thai)が23年の総選挙で掲げた「日額400バーツ」は、25年1月に一部地域、同年7月にバンコクで実現した。それでも13年の300バーツから12年余りで100バーツの上昇にとどまり、年率に換算すると2%台前半にすぎない。
物価上昇が再燃
据え置きが続く間に、物価環境は変わった。商務省によると、9月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比2.82%上昇した。8月の2.53%から伸びが加速し、1〜9月平均でも1.54%の上昇となった。中東の紛争が長引き、国内の燃料小売価格が前年を上回る水準で高止まりしていることが主因だ。
25年まではCPIが前年比マイナス圏で推移する月もあり、賃金を据え置いても実質的な目減りは小さかった。だが物価が2%台後半で上がり始めると、名目賃金が変わらない労働者の購買力は確実に削られる。労働団体はこの点を突き、26年の据え置き分を27年に上乗せして補うべきだと主張している。
焦点は首都圏3県
27年改定で具体案として最も多く取り上げられているのが、バンコクに隣接するサムットプラカン、ノンタブリ、パトゥムタニの3県を現行の372バーツからバンコクと同じ400バーツに引き上げる案だ。実現すれば1日28バーツ、率にして7.5%の上昇となる。月給制の労働者に換算すると月額1万1160バーツから1万2000バーツへ840バーツ増える。
3県には電機・自動車部品などの工業団地が集積し、バンコク都内とは道路一本隔てただけの地域も多い。同じ生活圏で賃金に差がある状態は、人材の流出や採用難の一因になっているとの指摘がある。同じ372バーツ帯のサムットサコーン、ナコンパトムの扱いはなお流動的で、首都圏の賃金を400バーツにそろえるかどうかが議論の分かれ目になる。
地方の扱いも課題だ。東北部の中心都市ナコンラチャシマ(コラート)は359バーツ、コンケンは357バーツ、北部の多くの県は347〜352バーツにとどまる。委員会は25年の改定で、地方には一律2%程度の小幅な上げにとどめる一方、観光地や工業集積地を重点的に引き上げる「選別型」の手法をとった。27年もこの手法を踏襲する公算が大きい。
「600バーツ公約」は遠のく
27年は、タイ貢献党が23年の総選挙で「27年までに日額600バーツ」を公約した節目の年でもある。だが現行の最高額400バーツから600バーツへ到達するには5割の引き上げが必要で、実現はほぼ不可能との見方が支配的だ。賃金委員会は全国一律の大幅引き上げに一貫して慎重で、公約は政策として正式に採用されていない。
労働側の要求はさらに高い。タイの労働者ネットワークは26年5月1日のメーデーに、最低賃金を712バーツに引き上げることなど9項目を政府に要求した。使用者側は、エネルギー高による生産コストの上昇を理由に大幅な引き上げに強く反対しており、労使の隔たりは大きい。
周辺国は引き上げ先行
タイが足踏みする間に、近隣諸国は相次いで引き上げに動いている。マレーシアは27年6月から月額の最低賃金を1700リンギから2000リンギに引き上げることを決めた。ベトナムは最も高い第1地域で月額531万ドンから570万ドンへの引き上げ案が検討されている。カンボジアのフン・マネット首相も、縫製・履物業界の労働者の27年の基本賃金を手当込みで月231.5〜242.5ドルとする方針を表明した。
ドル換算でみると、バンコクの最低賃金(月額約360ドル)はマレーシアを下回り、ジャカルタやマニラ首都圏とほぼ同水準にある。ベトナムやカンボジアとの比較では依然として高く、労働集約型の生産拠点としての競争力はすでに低下している。賃金を抑えて投資を呼び込むのか、生産性向上を前提に賃金水準を引き上げるのか。タイは政策の軸足を問われている。
企業は負担増に身構え
企業側にとっては、最低賃金以外の人件費の上昇も重なる。社会保険料の算定上限月額は26年1月に1万5000バーツから1万7500バーツに引き上げられ、29年に2万バーツ、32年に2万3000バーツへと段階的に上がる予定だ。従業員10人以上で積立基金を持たない企業に新たに拠出を求める「従業員援護基金」は、徴収開始が26年10月1日から27年1月1日に延期された。
最低賃金が上がれば、その近辺で働く従業員だけでなく、上位の賃金テーブル全体の見直しを迫られる企業も少なくない。年末に向けて27年度の予算を組む企業の多くは、確定額が示されないまま、主要工業県で数%の上昇を織り込んで計画を立てざるを得ない状況にある。
見通し:年明け発効は微妙、小幅・選別型が軸
過去の例をみると、25年1月1日発効の改定は、前年12月23日の委員会で決まった。決定から発効まで10日足らずの例もあり、11〜12月中に会合が開ければ1月1日の発効も不可能ではない。ただ委員会の招集の見通しが立たないなかで、発効が27年春以降にずれ込む可能性も意識されている。
改定の中身については、①首都圏3県を中心に400バーツ地域を広げ、地方は数バーツの小幅上げにとどめる選別型②物価上昇分を反映して全国で3〜5%程度引き上げる一律型③景気や国際情勢を理由に再び据え置く――の3つのシナリオが考えられる。26年の据え置きと足元の物価上昇を踏まえれば、2年連続の据え置きは労働側の反発が強く、政治的にも選びにくい。①を軸に、物価動向次第で地方の上げ幅をやや広げる展開が現実的な落としどころとみられる。
一方、600バーツの公約が27年中に実現する可能性は極めて低い。タイの最低賃金は、政治の公約と三者協議による実務的な決定との間で揺れ続けてきた。中東情勢と物価、そして周辺国との競争をどう天秤にかけるのか。賃金委員会がいつ、どのような答えを出すかは、タイに拠点を置く企業の27年の経営計画を大きく左右することになる。
※最低賃金額は賃金委員会告示に基づく。グラフはバンコクの日額。周辺国の数値は各国の発表・報道に基づく。2026年11月4日時点の情報。